辞書: 米長邦雄永世棋聖

投稿日: 更新日:

昔は「四冠王」、今は「人生哲学」

将棋を始めたときに一番好きだった棋士が米長さんでした。 なぜなら、当時一番強かったのが米長さんだったからです。 Wikipediaの記述によれば、1985年1月に四冠王になりました。

その後しばらく将棋から離れていたのですが、 2005年頃からいろいろ本を読み始めたときに、面白いと思ったのが米長さんでした。

米長哲学

まず何よりも「米長哲学」です。「人間における勝負の研究」という本の第1章「名人戦より必死にやるべき対局とは何か」に以下のように書かれています(太字は引用者)。

ですから、いわゆる「この一番」とういのは、必ずしも「でかい勝負」ではない。私のみるところ、一生のツキを呼ぶとか、何年間のツキを呼び込む大きな対局とは、実は自分にとっては一見、何の影響もない一番、その勝敗が自分の進退には直接影響がないけれども、相手にとっては大変な意味を持っている勝負なのです。

「米長哲学」の面白いところは、ちょっと考えたら変だけど、 よくよく考えると辻褄があっているところです。

疑問手は指すが、悪手は指さない

米長さんは亡くなるまでずっと変な人でした。 Twitterで「うんこなう」と言ったり、

日本将棋連盟の写真がダブルピースだったりします。

これだけならちょっと変な人程度ですが、 スキャンダルや問題発言も結構あります。 ただ、米長さんのすごいところは、 問題を起こしても敗着(致命傷)にしなかったことです。

これは「人間における勝負の研究」第1章「人間は、常に悪手の山の中を歩いている」に 以下のように書かれていることからも分かります。

ところが、悪手を指すのは簡単です。人を殺せば、それでその人の人生は終わったも同然でしょう。ところが、事故を含めて、人を殺すなんてことは簡単にできる。横領する、欺す(だます)、盗むといった悪手なら、もっと簡単で、人間が欲望通りに行動していれば、たいてい悪手になります。(中略) こういう状況の中では、悪手を指さないくらい大切なことはない、という気さえしてきます。そして、少なくとも現在の自分よりも悪くならない手、ちょっとでも向上する手なら、どんな手を指してもいい、という考えも浮かんできます。

ソフト指し疑惑冤罪事件の醜態を見てて思ったのは、 「もし米長さんが会長ならここまで酷くならなかったのになぁ」でした。