日本IBMで自分が経験したこと

投稿日: 更新日:

元となったツイート

これです。元のツイートは自分です。 Togetterは自分の中では有害サイトという認識ですが、 このまとめについては許可しています。

ただ、Togetterは有害サイトなのと、 書き換えができないので、改めてまとめています。

自分がいたのはかつて神奈川県大和市にあった、 大和ソフトウェア開発研究所です。通称YSL。

2004年1月: 統合ATMの障害

2038年問題として広く知られる事になった、この障害です。

このときのコードは実際に見たのですが、 書いてあるとおり「両者のタイムスタンプを足して2で割る」で間違いないです。

「自分の部門の隣の部署」と書いている通り、 自分自身は直接は関わってないのですが、影響がありました。

余談ですが、このとき、自分は確か長野にスキーに行ってましたw 金融系の部署だったのですが、年末年始はあまり遠くに行かないようにと 言われてた記憶があります。トラブルが起きたのは1/11なので、 年始というには遅いですね。

2004年1月 or 2月

Sさん

「研究所内に,テスト・ケースなどをレビューする専門部隊を設置した」 とのことで、うちの部署からはSさんが引き抜かれました。 「自分のメンターとも言える人」ということですが、 確か正式にメンターだったはず(制度があったなら)。 年齢は6歳くらい上だったかな。。。 自分とLinuxカーネル読書会とかやって、いろいろお世話になりました。

全ソースを見直せ

「全ソースを見直せ」はみずほ銀行です(さすがにもういいかな)。 まあ直接聞いたわけではないのですが、 同様のバグが他にないかチェックしろとのこと。 今ならJavaでIDE使えばだいぶ楽なのですが、 当時はC言語なのでかなり苦労した覚えがあります。

2004年7月

今から思えばこのときには病んでますね。

不遇な扱い

「不遇な扱い」というのは、自分で希望したわけでもなく、 IBMの中では地味な部門で(内永が存在忘れかけてたことあり)、 IBMの他のブランド(WebSphere, DB2, Lotus, Tivoli)やTRL(基礎研究所)と比べて、 何やってるんだろうという気持ちがずっと強かったです。

後から知ったんですが、実はうちは開発ができるだけ「マシ」という話を聞きました。 他の部署はソフトウェア開発といいつつ、 テストの末端みたいな仕事ばかりだったらしいです。

Innovation Days

Innovation Daysのアイデアコンテストのときは、 友人にも手伝ってもらって、朝までやってた記憶もあります。

ちなみに、その時のアイデアは、コンピュータ将棋に関することです。 具体的には覚えてないのですが。

まあ、「お遊び」とは言え、主催者が自分で応募して当選というのは 不誠実な行為だと思います。

倒れた

メールを見たときに、ショックを受けて、 そのまま机に伏せたと思います(記憶が曖昧、頭を後ろに反り返ったかも)。

その後、PMだったKさん(後述)に連れられて、 近く(南林間だったかな)の病院に行きました。 その時は手が震えるとか何かで、そういう薬をもらったかなと思います。

「PMだったKさん」というのは、「その時の上司(所属長)T」という表現が あったからです。KさんはPMだったこともあれば、 所属長(Line Manager)だったこともあるので。 書いてて思ったんですが、「別の部署のLine Manager」だったかもしれません。

2004年11月

「さらに他のストレスがかかる仕事に入った」というのは、 C++で書かれたコードに問題がないかの検証でした。 確かDoxygenを使ってチェックしたんですが、 C++なので、問題がないことを証明するのは難しいです。

この経験があるので、Javaは楽っすーという感じです。 リフレクションがない限り、Javaは呼び出し元がきっちりとチェックできるので。

このときの仕事がかなりきつく、 2週間で不眠症になってしまい、心療内科に通うことになりました。 もしかしたらパワハラかなーと今ちらっと思ったんですが、 悪意があって仕事を振ってくる人は記憶に無いので、 たぶん真面目にやりすぎたんですね。

2004年の評価

日本IBMでは評価が良い順に1,2+,2,3,4となっていた記憶があります。 A,B+,B,C,Dだった時期があったかもしれませんがそこは曖昧。

結局2+以上を取ったことはないです。 休職したときは3でしたが、他は2でした。

所属長T

その人の顔とか表情とかは覚えているのですが、 「話した記憶」というのが全くないんですね。 なので、ああいう書き方になったんだと思います。 (昔のノート引っ張り出したらもっと正確な情報が出てくるかもしれませんが)

2002〜2004の仕事

先にも書いたとおり、うちの部署は開発ができるだけマシらしいですが、 自分がコードを書いた記憶がほとんどないです。 そういう事情があって、プライベートではKitaの開発とかをしてました。

結局、YSLにはまともな仕事はほとんどなかったというのが実情だったようです。 その後にちょっと関わったLTSでも苦労しているという話を聞いたので。

内永の2002〜2004年

はっきりとは覚えていませんが、2002年に以下のようなことを言いました。 「2002年は〜〜ラボ」「2003年は〜〜ラボ」〜 「2005年はチャンピオンラボになる」と。

「チャンピオンラボ」という表現だけははっきり覚えています。 あとは4年か5年計画だった記憶があります。

まあ結果は言うまでもないですが、YSL自体がなくなりました。

2005年の所属長

確か先に書いたSさんだったはず。

スピークアップ

どうやら「あんなものは利用してはいけない」らしいですw 報復されるという噂もありますが、それに関してはないし、 少なくとも、他の

あと続く

また後で書きます。。。

辞書